糖質ゼロ、プリン体ゼロ、オールフリーダム。 | 山本清風のリハビログ

 で、あいつを殺してみた。


 咽喉仏を奥深く踏みこむと脊椎というか脊髄というか、とにかく断裂したらしくコンセントが抜けたみたいにぷつり、事切れた。やけにクリーミーな泡をやたらに吐いていたような気もするが、かねてより不愉快極まるあいつのこと、―――私は、幽霊のあいつのほうが、好きだ―――みたいなことは一切なく、通常死体の方が不快なのだからいっそ倍増したと言っていい、不快は。
 死体は。河のほとりに放置した。肢体がだらしなく伸びて、死体。故人は生前好き放題生きましたからもう思い残すことはないでしょう、なんて残された人間がかなしみの適応機制とはいっても勝手なことを申すものではなく、と同時にこいつは怨恨の呪怨の怨念ですから地縛霊になるでしょう、も申すべきではないのである。この死体がしたいことをして死んだかどうかなど他人にはわからないのだから、況や死体をや、となるべきで私は私が間違っているとはちくとも思わない。
 月日が過ぎた、と思う。これは憶測でしかないが。たまさか奇跡的に思い出しては伸びきった舌であるとか黄疸気味の眼球、失禁している股間、なんてものを観察してみるのだけれどなんというか、腐ってはいない。ここではやはり時間の流れが堰き止められているのだろうか。いや事実こいつ、いや元こいつの時間は停止したわけであり、こいつを死に至らしめた現場が保存されてはいたが、ここまでの時間は確かに経過していたわけで、これは停止された元こいつの時間にも明らか。
 となれば元こいつとなった瞬間に時間は停止したのか。或いは時間は吃音的に、間歇的に動いたり止まったりしていて、或いは更にだんだら模様よろしく時間の流れているところと流れていないところがまだらにあるのだろうか、わからん。生まれて初めて荒唐無稽な空間とはいえひとひとり殺してみたものの、なんら得るものはない。
 体感的には一年程経過して、私はふと思い立ち、死体を解体した。

 といっても器具がないので手ずからせねばならず、決意するまでに一年を要したというべきか。体感的に。上顎と下顎にそれぞれ手をかけると思い切り引き絞って裂いてみる。血液が噴出して不愉快が極まるが私は根が真面目なほうなので、一旦着手した作業を中途にやめるというのはこれ、嫌である。眼球を穿り出しとっかかりになりそうな眼窩に指をかけると、びりびり皮を剥いだ。これは一度に広い面積剥がすことができるとすごく達成感がある。顔面はあらかた剥がし終えたので腋窩、臍、菊座などもうのりのりになって、剥いでゆく。
 手が指が、爪の間にまで血液や油脂が付着して握力が奪われた。ここに至って絶望的なことには、傍らに流れるせせらぎがみな大量に遺棄されたタイ料理であるによって水がなく、手を清めようにも叶わぬと気づく。その時の私の絶望について編纂するならば有史以来の歴史よりも長く、また時間に換算すれば、刹那にも満たなかった。筆に尽くし難いとはこのことだ。タイ米で揉み擦ると不浄はみるみるうち清められた。
 さて気を取り直して四肢を裂きにゆく。これは人間、思いもよらないところで思ってもみない力が出るもので、生前のあいつを思い浮かべながら作業するとこれは、さくさく裂けた。それ専用に加工されたチーズ食品かとみまごうばかりだ。あっという間に川のほとりには内臓の類いが散乱し、現場はいささか猟奇めいてきた。かといって改札を往来するひとびとに咎める者のあるでもなく、肉片にはまるでさっきばらしたかのような瑞々しさが端々にまで感じられて、どうやらこいつの時間はあの時完全に停止してしまったらしい。それが証左に内臓がはみ出てきた瞬間、もうもうと湯気が立ち特有の臭気も立ち、おまえ死んだくせに不快を極めるなよと片足やら目玉やらぼとぼと大量に遺棄されたタイ料理の川に落とすとそこからきらきら清浄になるのが可視されて、みるみるうち臭みが消えてゆくのがまあ不思議といえば不思議だった。

 かくして髪の毛も骨も、臓腑も水晶体もみな余すところなく解体してはみたけれどつまらないくらいに、死体。遺体、になったあいつをまあここまできて変化もなかろうと綺麗さっぱり忘れて、数年が経って体感的に、かくして奇跡的に追憶された検証結果から申してみれば一切の腐敗、腐ったことによるくっさい変化などはみられず、やっぱな、と結果を一蹴して比喩ではなくて、かつてあいつであったところのすべてをみな余すところなく大量に遺棄されたタイ料理、つまり、川に蹴り入れて、そして。
 
 やがて私はストレスフリーになった。