山本清風のリハビログ -3ページ目

 るきるきるうん、星の瞬き。おばあちゃんの肩叩き。途中だったこといま、思い出す。過ぎたること。私は煙草に火を点けて、ふと、水晶の舟を浮かべる。何処に?

 おまえだ。

 

 涙を浮かべない、こともない。
「おっ、踏みとどまった」
「そう。まあ、浮かべんこともないがな」
 思い浮かべる。懐かしき面影を。目鼻口があり、耳があって、毛髪があった。貯蓄はない。自家用車もなく、思い出さないこともない、おまえのこと。
「おまえだよ」
「おいおい怪談調はやめてくれよ。俺は仕事をしているだけなんだからな」
「仕事という一語がおまえから主体性を奪っている。何処にある、責任の所在は?」
「何処にもないよ。責任なんてものがそもそも、幻想なんだ」
「なんだ」
 そうだったのか馬鹿らしい。私は唾棄する。もし責任なんてものがなければこうして私が思考しつづけること。それすらも価値がない。思考する、価値がない。

 

 

 

 待て。
「ちょっと待て」
「どうしたんだ」
「おまえの言葉によって私が思考をやめること、それはおまえに責任を仮託していることにはならないか?」
「もうやめろ、考えるのは」
「おまえが言葉にしたことで負う責任、私がそれを充てにした責任、原稿料とその対価、身銭を切ったことにより生じる読者の苦痛で緩慢なる無為の時間と、その体験」
「やめておけ、全方向的な意味で」
「生まれてきてしまったことによる履行と、その責任」
「俺はそれを〝権利〟と読み換えるがな」
「責任を突き返す気か」
「俺の言葉を信じる権利、というわけだ。なるほど便利だね」
「〝生きている、死ぬまで〟―――ここになんの権利/責任があるんだ? 自然じゃないか」
「〝生まれてきてしまったことによる履行と、その自然〟」
「どうして生きているだけじゃいけない?」
「いけないわけではない。それでも生きている」
「ただ〝在る〟だけだろ。それ以上でも以下でもない」
「とるよ、責任」
「なんだおまえ」
「だから責任、とるって」
「とるっておまえ、詰め腹切って去勢でもするつもりか? ………いいな」
「なかなかいい心がけだろ」
「手ずからいくのか?」
「詰め腹も去勢もせんよ」
「虚勢を張ったというわけか」
「結婚しよう」
「なんなんだおまえは逆転移甚だしいだろ、勝手に責任とやらを負っておいてどうしておまえの都合のいい方角へ物事を運ぼうとしているんだ? 狂っているのか」
「狂ってるのはおまえだろ、患者」
「うるせえ、医者」
 おまえは白衣を脱ぎ捨てると、成った。全裸に。
「王手、というわけか」
「俺はいま産まれたんだ」
「だから裸なのか」
「言葉はまだわからん。あと、揺すぶられると眠ってしまう」
「治療の過程は事細かに記録されている、それはおまえが一番よくわかっているはずだ。つまり、おまえは破滅したいのだ。ふわり電車に飛びこむ気軽さで、しゃっきしゃきのレタスを添える感覚で、もうスナック感覚で、いきたい。天下統一したい。芥川賞受賞したい。国会を爆破して自らも死ぬる。とそんな偉業を、四畳半に寝ころんだままそれでいて成し遂げたいのだ。つまるところおまえは怠惰なのだな。だから、眼前の女を犯すのだ。ふん。随分緩慢な自殺だな。喫煙となんら変わるところのない、つまらぬ死だ。おまえの死にはなんら価値がない」
「ぐう…」
「…寝た」
 私は医者に毛布をかけるとありったけのお湯を沸かした。こいつは妊娠しているかも知れないし、ホルモンバランスが崩壊して鉄格子に、鉄格子を破獄するため毎日せっせとお湯をかけつづけてきたかも知れない。今日辺り錆びついた一本がぽっきりいくともわからない。ふり向けば医者の自尊心はばっきぼきに複雑骨折を起こしていた。

 

 待っててね、おばあちゃん。

 おまえに応対する私、つまり私が私と表記したとき無論私は私なのであるが、と同時に幾つかの私性的なものを想起していて、それはこと文章に限ったことで言えば文体を左右する、要するに口調であるとか人となりとなる私を指す存在たる存在が、何度でも言うが、幾つか存在する。翻っておまえを指す存在とはそう多くなく、多分男性で、多くても三人くらいだろう。どうでもいい。

 

 

 

 大局的見地という言葉は大して好きではなく、俯瞰であるとか鳥瞰と表記したいところだ、しかしそれも致し方がない。ひとにはそれぞれ事情というものがあり、情事に応じてそれぞれ事情は異なっているわけであるが、や、下ねたはやめておこう。私の文章というのは誰が読むというのを想定しない時ほど想像力の翼を羽ばたかせて、比喩は鳥よりも高く飛翔するわけであるが何度でもこれは言うけれども、ひとにはわけがある。事情があると二乗に言っておく。自浄作用も無論あるけれどもいまは自我よりも他我を意識すべきであって、この段落はそろそろ改行したほうがいい。しようよ。

 

 

 

 事なかれ主義もいいところだ。だがどうせ意味のないことを書くならば、徹底的やれというのが私の信念だ。文体は伸びやかに紙面を埋め尽くしているのに、読めば読むほど意味を喪失してゆく文章、このようなものが書きたいんだよと昔友人に言ったらば「はあ?」と言われた。事なかれ主義もいいところである。個人情報機密情報の類いは脳細胞に記憶したらただちにシュレッダーにかけるべきだ。シュレーディンガーの個人情報ではなくて、展開してみるまで個人情報が削除されているかどうかわからない圧縮ファイルではないのである。そこゆくと私などは住居情報のところのみすぐさま削除、然るのちスクリーンショットでも公開したいくらいなのだがインターネット、公開して後悔することのほうが多く、これはハービーハンコックも言っている。曰く処女航海とかなんとか。

 

 

 

 にべもないというのはまだましで、沈黙というのが一番堪えるという通説には、私も一応は賛成だ。というか追憶してみれば痛切に同意したいこころがある。まあこころなんてものはメルカリで売り飛ばしたが。とまれ沈黙というのは暗号ではなく、前述した圧縮ファイルではないわけである、まさか私も今回の文章が前段参考すべき構成を持つとは思ってもなかったが、沈黙というのはマックのぐるぐる虹色フリーズなのであり、これは十中八九、落ちる。作業中のデータは自動保存されていない。他方でにべもないというのは反応のひとつには過ぎないけれども、心理学精神分析メタファー認知行動学総動員して、どうにか妄想寸前のぎりぎりの解釈が余地されている。これをおまえは希望と呼んでみたい。パンドラの箱の底に残されていたひとひらの紙切れを、深読みしたり縦読みしたりシーザー暗号にかけてみたりスーパーコンピューターのワトソンで以て解析してみたり。しなくとも想いはきっと伝わっていると思うのが、それが妄想なのだと言っているだろうとは思うもののまあまあよくて、要は距離感を誤らないというのが肝要である。ひととひとの距離感こそがAbsolute Terror FIELD(絶対恐怖領域)であったりセンチメンタル(私はずいぶん以前からセンチメータルを提唱しているが一ミリも流行らない)であったり家族友人恋人インターネットメルマガメルカリ楽天トラベルなのだから―――。

 

 

 

 

 

 

 

ゴジラは物語ではない。


無論エヴァでもなければウルトラマンでもない、それでも尚物語なのだから、比喩でいうならば暗喩ではなく直喩なのだ。いきなり内臓。従って痛みは逓減されず、痛みを痛みのまま描かれねばならず、省略を許さず、人類を守るという漠然としたテーマとは、そのままルールの遵守へと帰着する。


そもそも、テーマが重いのである。ファーストゴジラのインパクトは戦後間もない疎開経験者を想起させた。逃げ惑うひとびとが真に迫っていたからである。或いは核の脅威。水爆によって誕生したゴジラとオキシジェン・デストロイヤーによる解決。科学者の犠牲と加害者であるはずのゴジラもまた被害者であるというメッセージ性、皮肉。それもこれも、自分がただ戦争を知らない世代だったから感動したのではないかと思われてくる。震災を経て、シン・ゴジラを観た後では。


翻ってゴジラが直喩であるというのは説明の余地もなく災害を想起するからである。「ゴジラが生物である以上災害ではなく駆逐可能」というものの、津波の侵入経路そして放射性物質による汚染、シン・ゴジラに登場する被災映像のどれもが震災の既視感にあふれており、後はちょっとした想像力で補完できてしまうところになんというか、軽く絶望すらしてしまう。無力感に打たれるといっていい。


どう考えようが震災以前/以後というものが確実にあって、旧劇エヴァやナウシカ、まどかマギカが被災地の映像とオーヴァーラップしにくいというのは、アニメーションという暗喩であるのみならずやはり、以前/以後が確実にあるからだと思う。それは創る側にも観る側にも。ここで以前/以後ということにもうひとつ触れておくと、エヴァ以前/以後というのも確実にあって、あったがゆえエヴァは意図的に、それこそつげ作品の如く大量にオマージュされたが、庵野監督が今回のような実写を撮ったとき、まさか「踊る大走査線にしかみえないんだけど」という事態になることは予想できなかった。


松本人志のMHKを観て「若者はこれを観てラーメンズのパクリとか言い出すのでは」というオマージュと本家の逆転の危惧に似ている。誰もが石野卓球のように上手く返せるとは限らないのだ。とまれ、震災以降という体験とエヴァ以降という体験が、あくまでもこちら都合によってシン・ゴジラの観劇を妨げているというのは遺憾ではあるが仕方がない、庵野監督もゴジラも昨日突然生まれたわけではない。


経験が邪魔をする、とかつて小室哲哉はのちの妻に歌わせたがまさしくそういうわけで、私は庵野監督というのはガンダムに系譜されるような、大人の事情を描くのが上手い人物なのだと思っていた。それは宮崎駿だって上手いのだが、庵野監督は好んで扱うテーマなのだと。しかしながら実写を観てみると、アニメーションに於ける比喩もさることながら設定を通過して観るのとでは異なり、現実という各方面への気遣いもろもろ現行法に遺族感情もろもろもろと問題点が多過ぎて、とても山崎豊子的なおもしろさはなかった。超法規的措置があくまでも現実を越えてゆかないのだから当然で、「そのためのネルフですから」が今回はないわけだからカタルシスがなく、二時間かけてエヴァの第一話を観るような歯切れの悪さがあった。


一方私は最近、こどもが好きなため電車や重機の映像をよく観るのであるが、その観点からすると各乗物の活躍がいささか短か過ぎた。それら踏まえてシン・ゴジラの楽しめる要素を分類すると、

 

 ①テロップが表示される各種ジャンルの萌え
 ②山崎豊子的な大人の事情/人間ドラマ的なもの
 ③外的を迎撃するというバトル
 ④現場的なもの/マンパワー/日本ということ

 

だいたいこれらが並列に進行しているが、プロット的には一直線だといえる。そもそも誰に視点を置いてよいのかよくわからないところがあった。そして②についてはもう触れたので③を前述した経験値からみると、これは普通の物語である。ウルトラ警備隊がゼットンを迎撃したのは珍しいように思えるけれども、キングコングだってジュラシックパークだってきっと人間が迎撃しているのだろう。観てないから知らないが。


しかしこちらはゴジラに通常兵器が通用しないことなんてずっと以前から知っているのであり、それはこちらが悪いのだけれども、その事実が劇中で判明するまでに余りにも長い時間を要し、くり返されるエヴァ的な「通用しない」「やったか」「一番怖いのは人間」というのは、もうこれ本当にこちらが悪いのだが長くて、苦行だった。その苦行感についていま一歩考えてみた。


すると思ったのは、NHKがCGを駆使して放映する『都市直下地震、そのとき東京は』的なドキュメンタリー。あれに似ているなあ、と私は思った。シン・ゴジラで起きることはかつて起きたことと、これから起こり得ることを慎重にチョイスして描かれていて、それゆえ災害シュミレーションそのものでしかなく、俳優を起用した再現ドラマ感が甚だしくて、少なくとも――或いは罰当たりにも――私が求めていた爽快感なんてものは微塵もなかった。そう、すかっとしてはいけなかったのである。


これらのことは④に繋がってゆくが、その前に①について触れてみたい。①は当該クラスタにとっては不可避な喜びがある。ミリタリーも艦これも鉄っちゃんも役職萌えもみんながみんな、好きな当該ジャンルのテロップが出た瞬間――それがたとえ不謹慎だと思っていたとしても――テンションが上がってしまうのは仕方がない。私もN700系が走ってきたときなんだか喜んでしまった。しかし説明という配慮を越えた分量で表示されたとき――これではまるで自衛隊の見本市ではないか、と私は思った――配慮とは観客というよりも、関係各所へと向けられてはいまいか。そう。息苦しいほどの、配慮。


テロップの表示は以下に分類される。

 ・時間/場所
 ・乗物/製品名
 ・人名/役職

 

これだけ表示されると、いっそその小気味よさばかりに気持ちがいってしまい、京王も出してやれよ西武は、うちの区だって燃えている、みたいな感情になってくる。個人的には、

 

 〝YRP野比〟
 〝スーパーアンビュランス〟
 〝小池百合子(本人)〟

 

辺りが欲しかったところだ。YRPは地味な駅で壊し甲斐がないかも知れないが、京急線だし字面がよい。スーパーアンビュランスはドクターイエローと双璧を成す子供好きのする乗物であり、特にラストのトミカのCMかとみまごう乗物ラッシュにあっては、もっと消防車両の活躍があってよかった。あと(仮名)というのがいたので本人がいてもよい。


ここで仮に、旧劇エヴァのアスカが踵落としで戦略自衛隊のヘリを撃墜するシーンに、同様のテロップ頻発があったとしたらどうだろう。画面がうるさい、のはともかくとして操縦している人間の死を意識することになる。というか、ひとの意識だ。どんな乗物にもひとが乗っており、命懸けなのだよということなのだが、余りにも多く表示されるのでよくわからなくなってくる。そして回天式にひとの搭乗していないものには(無人)と書かねばならない。もう、大変なのである。


そこで④である。現場的なものは新劇のヤシマ作戦などでもみんな好評で、私もアニメーションを通じて想像するだに現場でがんばっているひとびとへとめどない感謝があふれてくる。だが今回は実写であり、現実に働く人々がいるわけで、ここでもNHKのドキュメンタリー的な要素が含まれている。私はゴジラを観にきたはずであって、ドキュメンタリーを観にきたはずではなかったのだが、という気持ちになってくる。そして確認はできていないけれどもラストの重機、ホイールローダーはCAT製であったかどうか。


最後まで観た私は「もしかしてこの映画は、〝みよアメリカ、これが日本映画だ!〟というものであって、私なんかをターゲットにした映画ではなかったのでは」となってしまい、というのも、と結論は文字通り結びにしよう。ここで冒頭に戻ろう。

 

ゴジラはテーマからしてが直喩であり、それゆえ不鮮明に描く/省略することが許されない。
ひとの死を省略することが許されず、それは近く震災があり被災者があったためで、大人の事情を省略することができず、それは現行法や現在の日本があるからであり、テロップ表記が必要であり、何故ならそこに働く人が現実に存在しているからであって、そのような数々の現実というものと折りあいをつけてゆくこと、それがシン・ゴジラという映画に観たものだ。

同様のテーマはこれまでアニメーションでも数多く描かれてきたが、ゴジラであること、そして実写であることがそれらの禁則を強めた。


そのため映画の内容は先に述べた通り起きたこと、起こり得ることを逸脱しない。現実を扱う以上、逸脱は不謹慎であるからだ。人知を超えた存在はただゴジラのみであるが、これは災害の直喩であり容易に現実と置換可能であって、そこにヒト型決戦兵器やウルトラ星からの使者が降臨する、なんていう絵空事は現実への冒涜となってしまう。だからルールを遵守せねばならない。
だから、である。楽しむ余地なんて本当はないのだ。如何にテロップが表記されて物語の演出めいてみても本来の意図は異なる。楽しんでなどいけないことをテーマにしているのだから。そして大人の事情を執拗なまでに描き、登場するひとつびとつにテロップを表記して、登場し得るだけの乗物を、登場させた。

―――許されない。


原爆投下された過去を描かないことは許されない。
属国ニッポンを描かないことは許されない。
震災を想起させないことは許されない。
放射能を扱わないのは許されない。
すべて現実なんだ、だからこそ。

 

だからこそ、「わかりすぎるほどわかってるよ」と感想してしまう自分がいるのである。震災の恐怖や核の問題を忘れることができるだろうか? 少なくとも私はできないし、これからもずっと考えていかねばならない、と思っている。シン・ゴジラで描かれる問題がファーストゴジラの時代から何ら変わらないこと、或いは例えば多くの手順を経てやっと開始されたゴジラ迎撃作戦、悠々と表記されるテロップの兵器群とは基本的に、人間を殺傷するため開発されたものである、というような多くの皮肉。核とは抑止力であるだなんて最大の。


しかし少なくとも震災以降、この映画で提起された問題について考えなかったひとがどれだけいるだろう。少なくとも私は考えずにはいられなかったし、この映画を観て「考える契機になった」なんて日本人がいたら、私はキャラではないけれども「どうだろう」と思ってしまう。だからこそ、唯一の原爆投下国であり震災を経たニッポンを〝海外のひとが考える契機〟になれば、というのなら得心がゆくのである。


そのとき海外のひとにとり、私がファーストゴジラを観たときのようなインパクトがあることは想像できる。それは絶対にエヴァやウルトラマンでは成し得ないことだから。

 

もし仮にそれが目的だとすれば、いやそうでなくとも関係各所よく配慮してまとめあげたな、すごいな庵野監督仕事できるな、という感は間違いがなくて、映画を観るまえにツイッターで読んだおたくが言ったという「さてと、みせてもらいますかな。庵野の実力とやら」というのが創作であったとしても好きなのだが、果たして実力とやらというのは伝わったのではないかと思う。

 

 

 

まあ私は暗喩とやらのほうが好きなのだが。

 

 

 

 

 

迎撃されたおかまの部屋には通信機器がなくて。
着衣と麦茶と凍結されたひや飯。彼がおかまであろうがなかろうが、はたまた年齢性別国籍の別なく、彼女は喰い詰めていたのではなかるまいか。この部屋にはカーテンがない。
テーブルの上にメモがある。万年筆の精緻な筆致で

〝韓国人が我がもの顔で五月蠅ひ〟

と綴られていて、まず疑われるのは政治思想なのであるがどうだろう、通信機器のない部屋で声高いかにヘイトスピーチをぶってみたところで、他者へと伝達されぬ政治とはいっそ、宗教の顔をしていやしないだろうか。宗教は本来他者へと伝える必要を持たぬ。伝えねばならぬとすればそこに政治、商売が成立しているのである。とまあ、政治思想とは断ぜられない。
もしかするとただの自由律なのではないだろうか。〝うるさい〟を漢字表記したり、旧仮名遣いを用いるのは教養ある証左とはならないが、少なくとも描かれたような場面はよく散見されるものであり、戯れに日常を切り抜いてみただけのことではないだろうか。おかまだって戯れる。誰にも制止する権利などはないのである。

ではどうしておかまは野球部員たちを遊撃したのか。中学生といえど鍛練された肉体に金属バット、あまつさえの集団にどうしておかまはなりふりも構わず、闇を討ったのか。ひと言も漏らすことなく、何故撃ち落とされたのだろう。妹が野球部員に輪姦されたことがあっただろうか、自分が女性であったなら成り代わりたかったのだろうか、中学生だからいけるとでも思ったのだろうか、通信機器でも奪おうと思ったのだろうか。

野球でもやりたかったのだろうか、戯れに。




 小説家の猫はナイーヴで好もしかった。

 小柄な、茶虎のなめらかな毛なみキャリーバッグの隅に寄せ、額に飼い主の手のひらあてがっている。室内飼いの男の子だそうであるが、こちらからはややぶちの混じるちいさな鼻しかみえない。小説家と猫の話だけを二、三して、それがよかった。

 私は静謐なこころになって動物病院を出ると、坂を下り、保育園を左折して、木陰のカーブを抜けて神社を通ると、川に出た。整備された河川には桜が植わり、ベンチが据えられ、走るひとがあり、空模様の機嫌はすこぶるよかった。

 私は少しだけ家事を放擲することにして、ひらはらあえか落下する花弁のなかを、ベンチに座った。野菜の名前の愛猫を撫でながら風が、川面の上空を花をちりばめて渡ってゆく様子を、可視的に眺めた。アイコス噛みながら、みた。

 上京して幾年、いまやゆく春を惜しんでいたずらにこころ痛めることもなくなった。春はまた来るのだ。強度を得たのと同時に鈍麻したのだともいえる。平和を信じるというよりも、希望が習慣づけられたというべきだろうか。ともあれ齢の数程度には前進しているようで、何より。

 雪国から上京した私は生まれてはじめて桜をみた。胸を打ったのはどちらかというと、その美しさよりも、落ちた花弁が足蹴にされ茶色く朽ちてゆくことだった。足を停めて、落ちたばかりのひとひらひらうと読みさしの文庫本に、そっと閉じた。

 帰宅すれば細君と子供の自転車がなくて、自転車置場には『櫻の園』のピアノ曲修練している音色が微かに届く。いま暫し私は静謐なこころのまま猫を解放すると、猫背にひとひらぽつり、花びらが名残ってなかなかに風情がした。




 比喩が気色悪いのである。



 比喩というのはたとえのことで、メタファーともいう。というのもこんなことがあった。独身女と妻帯男の往復書簡があり即ちこれ不義密通ということになるが、文中しばしば"卒論"という単語が登場しかしながらふたり大学生ではない、文面読み進めるうち"卒論"とは"離婚届"を意味していると文脈から察せられる。これは隠語、暗号、秘密の合図、共通言語、閉鎖環境に於けるとまあなんと呼んでもいいが、比喩である。これが気色悪い。



 読者諸君のなかには「不快」「悪い意味で最高」「冴えてる」等思うひとがあるかもわからない、恋人同士の会話なんてものはえてして気色の悪いものであってそれが白日に曝されたのだから路傍に内臓の腐っているようなものであるが、それにしても限度というものがある。祝福ムードの強要と電車内に於けるディープキスは等価値であって私たちは他人を祝うなんの権利もなければ同時に、なんの寿がれる資格もない、それでよい。だがひとえに気色悪いといっても肝要なのは理由であり、思考せんければこれ人間などただの肉塊である。



 考えてみよう。"離婚届"を"卒論"と呼ぶことにはどんな意味があるだろう? きみ、比喩をそう馬鹿にしたものではない、或るものを別の名に換言するときそこに深層心理が投影される。弾丸の線状痕にも似てこの場合両名の関係性すらプロファイルできるのだから、比喩がきもいというのはこれ、人間性の一大事なのである。



 さて推理してみよう。離婚届が卒論と呼ばれるとき妻帯男は独身女を待たせているに違いなく、卒論というのは〆切に向かって大学生が書くものであるから相当待たされることになろう。卒業の日程は決まっているのだがなんとなれば提出しないという選択もあるわけで、現に私はまじめがとりえのような女子大生が提出の朝寝坊し、単位など分けて欲しいくらい取得しているというのに留年、というのを目の前でみている。また卒論とは達成すべき目標であるという点にも留意したい。果たして離婚届とは、達成すべき目標であっただろうか?



 これは飽くまでふたりだけの目標であり勝手に目標設定された妻はさぞかし迷惑だろう。この目標というエレメントがきもさの源泉なのであり自分勝手な目標とは自己啓発と同一線上にある、つまるところ「自分はいいことをしている」との触感が判明したときひとはきっと、おぞましいと手をひっこめるのだろう。根底に流るは罪悪感であり、それを悪人となる覚悟もなくさも目標のように謳うこれが、きしょい。



 それを踏まえ離婚届を卒論と呼んだ詩情(ポエジー)がどのように編まれた(ロジカルされた)かを想像(イマジネーション)すれば、以下の対話が容易く導かれよう。



独身女「でも奥さんに悪いし…」
妻帯男「(相手の罪悪感を除去するため自分はいまの妻から卒業しなければならず、なぜならばより高次のステージに進む、即ちあなたと交際することが自己を啓発することになるためあなたは何ら罪悪感抱く必要はなく、ついては離婚しなければならぬわけだがこれら法律用語は罪悪感を誘発しかねぬので離婚が卒業ならば離婚届とは卒論であるとし、またまじめな人間ほど鼻先の人参つまり目標を掲げられそれに向かい協力することに疑いを持たぬので、上手く論点がすり替えられマイナスをプラスに転嫁できるような内容)」
独身女「応援する!」



 マクガフィンという言葉がある。意味は各自検索されたいが目標は目標であってなにも、牽引するだけが目的ならば達成する必要はない、つまり妻帯男が家庭を損なうことなく一定期間独身女と火遊びしたいと思えば、離婚届(この場合は卒論)という目標設定だけで関係性は成立してしまう。卒業がゴールではなくさしあたり卒論を設定しているあたり、手札を大事に大事に切って長く楽しみたいという感じがひしと伝わってくる。だがここまでである。



 独身女が世間を知らず純真を弄ばれただとか、妻帯男が生ゴミを頬ばったような不細工いやむしろ生ゴミそのものであるとか、なかなか興味ぶかいシチュエーションの気色悪さが多々あるけれどもそれは本質ではなく、本稿は比喩の気色悪さを対象としているのであって書いている私も相当胸を悪くしている、これ以上脱線を書いてキーボードが吐瀉物で汚れては切ない。実際になにがどうしたであるとかそういうことは指定の曜日然るべき場所に投棄しよう。



 私はなにも不義を責めているわけではない。ただ比喩というのは人間性の印字された内臓みたいなものだから、おまえらも気をつけたほうがよい。自分は若い時分このようなことがあった。つきあうことになった女が私方に少しづつ私物を置くようになりそれをして女は「巣づくりしてるの」と言う。聴いて私は「なんだ巣づくりてじゃあおまえ雛が巣立ったら別れるのかてゆうかおまえは鳥か可愛いとでも思っているのかさっさと股を開くでゲス」など思わないでもなかったが結局言葉、嚥下した。そして別離したるのちこのことを思いだし、なんたるつまらない気色の悪い比喩であろう。ひとりキーボードを汚すのである。



 このようにまず、悪い比喩には奥行きがない、浅いのである。目先の近似ばかり気をとられそれをそう呼ぶときなにを意図するか、こころがゆき届いていない。ゆき届かぬというのは全く考えていないわけではなくて、意図が自分がどう観られるかばかりにとらわれて、すっかり視野狭窄している。そら自分は鳥にたとえて可愛いか知らん、しかし立つ鳥跡を濁さずというし巣づくりは親の役目ではないか、では私はなにか? 雛か? ここ、私の家なんですけど? とは口にせず、雛鳥とは天仰ぎ口を開けて待ち続けるもの、然るのち餌、丸呑みするもの。



 筆が横滑りしたが卒論の比喩にしても主観の所在が大事であり更に、所在の明らかになった主観には覚悟がなければならぬ。比喩がなにもかも婉曲表現だと思う者は比喩を悪用しているのであり、その姦計がこうした分析により看破されているのみならず、本質さえありありと漏洩していると気づいていない。あと忘れる前に書いておくがおもしろい比喩を共有できなかったカップルは早晩、破綻する。共通言語たる比喩は言うなれば子供の名前、いや子供そのものでありセンスの悪さを恥じるべきである。したがって比喩の問題はなにも不倫カップルに限らず、普通のカップルから人間関係全域へと広義に渡っている。



 では離婚届はどうたとえられるべきだっただろう。私は主観の所在と覚悟を前述したが、自らを正当化したり可愛いと思われたいなどぶれることなく、たとえば悪を一手にひき受けるのも覚悟。離婚届を卒論にたとえるくらいならば、手軽に致せる異性を"公衆便所"と呼ぶほうが比喩としては鋭く、論理整合性も高いし誰に文句を言われたところで好かれようと言ったはずもなく、或る側面の事実を明確に言い得ている。或いは相対する概念をもってくるのは定石として、そこを超越してるのがたとえば性風俗を"ヘルス"と命名した詩人である。ファッションヘルスだとかデリバリーヘルスであるとか、応用されることで最早元の意味を超越してしまっている。こうした強度がときにひとのこころを打ち、ときに馬鹿馬鹿しくさせて問題を解決してしまう、ふたりの関係が軽率であったのかどうかは比喩にありありと刻まれているのだ。



妻帯男「もうちょっと待ってくれへんか」
独身女「いつまで待たせますねん、はよ領収書切ってえな」



 こういうものは説明するだけ野暮なのだがこの場合仕方あるまい。こうして離婚届を領収書にたとえた場合、がぜん家庭裁判所のおもしろ判例になりそうな予感がしてくる。金銭問題ゆえ刃傷沙汰もありえようがそもそも痴情のもつれなのだから、美化する必要も、ましてや卒論などと目標めいていう必要などないはずだ。



妻帯男「書けたよ…」
独身女「赤紙が…」



 なんて不謹慎でよいのではないか。不倫が不謹慎であるかどうか見解が分かれるところであるけれども、更に大きな不謹慎によって完全に不謹慎とし、不必要なまでに不謹慎な比喩を用いることできちんと婉曲/論点のすり替えが配合される。あとはもう紙にとらわれることなく結婚指輪にごぼう刺して枕許に置いてもいいし馬の生首投げこむでもいいしいっそ"ポア"でもいいではないか、なんだ卒論て、つまらん。






 二十代前半、水木しげるは私にとって精神的支柱だった。

 しりあがり寿を「死を笑い飛ばしたい」と『瀕死のエッセイスト』を描いたが、知っての通りしりあがり寿の作風はコメディが実は笑えない深刻さを物語る、というパロディのパロディというシリアスで勤勉なサラリーマンが精一杯おどけてみせる、そんな緊張感を読者に強いるのが作風だったのだからつまり、失敗していたのだが。

 だがスローガンとして掲げられたそれさえも実はポーズであり前フリなのだという「死を笑い飛ばしたい」とはすでに、水木しげるが実践しているではないかと想到した。死の深刻さを相殺するのはユーモアというよりも希望という代替案であり、宗教のように説教くさくなく金のにおいがせずまこと身近でありそのようなものが、妖怪という二字には結実されているような気がする。キュートだとかユーモアはそれを包んでいる表皮に過ぎない。牧歌的である。思えば谷岡ヤスジがただひとり肉薄していたか。



 二十代前半の私にとり水木しげるの言葉はことごとく、沁みた。なにしろ好きなことばかりして暮らしたかったしなまけものであったし水木しげるは成功していたからだ。あなたのようになりたい、と私には赤紙を受けとる勇気も片腕を失ってそこに赤ちゃんの香り、生命の香りを嗅ぎ原住民から果実を譲り受ける能力も覚悟もないのに、都合よく解釈していたわけだった。いま思えば致命的なまでにハングリーさが足りないのである。ここ一番で水木しげるを突き動かすものは食欲であり、それ以外にも旺盛な睡眠欲、吉原来訪エピソードにみる性欲など、欲望に忠実であるからこそ「好きのちからを信じればいい」でちょうどよかったのだろう、といまではわかる。決して菩薩ではないのもミリキであった。

 水木しげるに憧れながらも一日三食を八〇円のインスタントカレーを喰らい、睡眠時間を削りDTMしていたむしろストイックな私は足しげく古本屋へと通い、水木作品を蒐集しつづけた。はじめは鬼太郎だけなんて思っていたものが、青林堂版・講談社版・扶桑社版・以下続々と復刊される鬼太郎シリーズを買いつづけ、思えば太田出版の復刻シリーズや墓場鬼太郎の再アニメ化などなど毎月のように新刊がでていたし、すぐに鬼太郎だけでは物足りなくなってすべて買い集めるようになってゆき、神保町でずいぶん紙幣を落としたりした。自室には水木しげるが屹立の余地なく積みあげられ、大水木展あたりを頂点とし長き栄華を誇った。いま徒然なるままに、水木。



 取り壊される男性寮から大量の精子の霊魂が飛び立ってゆく
 墓場からゆりかごまで(わかり過ぎるほどわかる男よ)
 くしゃみの拍子に他の人間の口に入るボヤ鬼
 フハッ、とは脱力したときにでる音
 閉店間際の八百屋、安くなった腐りかけのバナナを奥さんと食べるのがたのしみ
 生まれてはじめて発した言葉が「死」
 うんこの島
 ゾロゾロゾローッ
 バオーン
 体育館に響き渡るナプーン
 妖怪語ピリカポリカテ
 鬼太郎と悪魔くんの対決
 三島由紀夫
 喫茶店
 ものすごいスピードで点と点を繋ぎあわせてゆく
 コケカキイキイ
 デスノートの元ネタ
 こなきじじいとともに沈んでゆく原子力潜水艦
 ビビビビビビビ、ビン(最後の一発、ねずみ男が涙を浮かべている)
 美人の幽霊に魅入られる山本

 もう半分以上妖怪なんです、そう言っていた水木しげるはとうとう肉体を置いてゆき、ペトロペらがまつあの世へと旅立った。涅槃でも天国でも極楽でもなく、あの世の辞典を描いていたのだからあの世としか言いようのない場所へと行った、行ってしまったのだろう。再三水木しげるが書いていたように、水木しげるの死はかなしむべきものではなく、といって爆笑できるものでもなく、水木しげるの訃報を受けて自分が文章を書かずにおられないのはやはり悔恨めいたもの、しかし名状すべき追悼文があるわけでもなく、なんとなくさみしく、諸行無常を感じずにはおられずまた、できることなら肉声のひとつでも聴いておきたかったというような些末に過ぎない。

 多くの死がそうであるように、私自身そう思っているように、これからはいつでも話かけられるし話せるようになる、それが死でありさみしさをも埋める唯一だと思う以外にないのだろう。それでもなおさみしくて、訃報を知った昼からずっと私は、府中の方角に向かってひとりブリガドーン合掌をしているのである。






 エクセルシオール


 との文字列が掲げられている傍らの自動ドアを抜け、私と友人は下げ台から使用ずみマグカップをひとつづつひっ掴むと喫煙席へと赴いた。で、煙草に火を点けぎしり。対峙した。


「サノケンがオープニングでハガクレよ」
「なんだと?」
「サノケンにオープニングのハガクレよ」
「おいさっきと接続を変えるなよ。わかりにくいものが余計にわかりにくくなる」
「聴こえてるんじゃないか」
「つまり、佐野研二郎がオリンピックの開会式でハラキリしたら外人にめっちゃ受ける、そう云いたいんだろう?」
「流石だな清風。円周率が割り切れちまうよ」
「なに?」
「一晩で法隆寺建てられちゃうよ」
「おい嬉しいのはわかるが自信がないからといって途中でねたを変えるなよ」


 思えばこいつとは中学時分からのつきあいである。本質が変わらないというのは存外疲弊するもので、というのも互いの間には或る特定の時間軸が走っており、それは私たちの経年であるだとか明日馘首になることとは無関係であるがため、落差が私に残酷なのである。この空を抱いて羽ばたいても中年は神話にはならないし。


「ところで清風はけっぶふん」
「おい汚いな」
「すまんすまん」
 はは、と笑った友人の鼻腔からひとすじの。
「おっと、鼻水タリーズ」


 やがて時間は動きだす。
「おい、天才かよ」
「誉めてないぞ。さも私が云ったかのような叙述トリックはやめろ、あまり読者を馬鹿にするな」
「清風こそ俺たちがまるで一篇の物語かのような物言いするじゃないか、正気か」
「そもそもここはタリーズじゃない、ヴェローチェだろう。なににかかってるんだ」
「おいおい清風、ここはサイゼリヤだろ?」
「なんだと?」
 ふいに無言となった私たちの後方で、


 ピロリ ピロリ ピロリ


 ポテトの揚げあがった音がしたかと思うやピエロ的メイキャップの店員がやってきて、私たちは喫煙の咎によって拘留されたが私なんぞはまだよいほうで、友人は××に月見バーガーを見舞われていた。






「これでは使えないしそもそも、可愛くない」

 私が一刀両断にすると出尾菓(デビカ)は艶めかしく微笑んで、

「使えないとなんで困るの?」
 と問うた。その待ってました感がいけ好かなくそこはかとなく鈍光(にびひか)るアクセサリーがそれがため拵えられたのだと知ると、女性がカワイイに封入する意味は最早一冊の辞書である、と我ながら名言めいていたなんとなく。

「クリスタル」
「ん?」
「就職活動の惰性でオープンマインドなお前が射程距離に踏みいるやのべつまくなし男とあらば駆けひきするその脊髄反射が腹の底から不快だし、リクルートスーツを脱がさないで」
「ぜんぜん意味わかんないんだけど、なんで不快なの? なんで使えないと困るの?」

 男の子が好きな子にいじわるするように、いけずは駆けひきのうちだと出尾菓は考えているようであった。
「もってけ!セーラー服っていうのは、セーラー服を脱がさないでのオマージュにしてアンサーソングだと思うんだよな。傀儡的な前時代的アイドルソングのアンサーを、自立的な現代アイドル像としてのラブライブ!楽曲手がける畑亜貴が書いたというのは一顧する価値がある」
「ん?」
「そりゃクリリンのことか? それともプニってことかい?」
「こっちがきいてるんだよー。なんで使えないと困るの?」

 少しく思考停止していたようだ。
「ちょっと離れてくれるかな」
「えーなんで~?」
「いいから後ろに下がってごらん」
「んー、ここ?」
「まだ後ろ」
「え~清風のいじわる」
「もっとだ」
「まだ~?」
「よし、そこでいい」

 私がアンダースローしたつぎの瞬間───、レジン閉じこめされていたコンドームが出尾菓の額に貼付されていて、破片がきらきら綺麗やってん。




エイブラハムのパンチ そして
エイブラハムのキック
私たちは
いろんなエイブラハムの徒手空拳を受けながら
死について考えたりする


しかれどもエイブラハムは最中にあって
片手でアシュレイマディソンしたりする
婦人と床にあるときも
絶頂に至るまいとプラトンの『国家』を
諳んじるため 女性たちから疎んじられている
いままさにライン通話に切り換えて
(私たちが血の血液を流血しているのに)


堀北真希が誰と結婚しようが
誰が芥川賞をとろうが関係ないではないか
私たちは血を巡らせたりして
ときに死を考えたりする
ひとは死ぬために生きているのだから
死について考えることは 生きることである
生きる実感のためならば
エイブラハムのパンチを受けよう
キックを喰らおう ノーザンライトボムを
それが、生かしている実感から生じたならば


エイブラハムのパンチ そして
エイブラハムのキック
逮捕しちゃうぞ