『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』に始まり『CROSS†CHANNEL』で終わったエロゲ① | 山本清風のリハビログ

 ――腐り姫、
   ひぐらし、車輪の国、
   その次は?――

 

 人と人はわかりあえない。
 これは誰でも知っているが、ではそれをわかり切った上で〝わかりあうべく努力を恒久的に継続する〟のが夫婦であり、〝表皮だけでもあわせておこうか〟と、これがいわゆる通常の人間関係であるのを知らず、内臓ばかり闇雲に擦りあわせている恋愛などマッサージ店舗とネイルサロンを足した数よりも、多い。

 つまらないやつは比喩が安直。とこれは小学校で習うけれども、表皮はと問われ、会社社会であるとか学校或いは常識になぞらえるのはまだよくて、まさしくおなじような恰好をしておなじような言語を喋るひとつのカルチャーとなってくると、そういえば、かつてのギャルはみな少しほじくってみればいまで言うメンヘラのようなもので、ギャルの作法も忘れて、むきだしの言語で粘着してくるものであった。
 まあ隠したくもある心の所在を戯れに踏み抜いた私が悪いのだが。


 山本清風の清風教。これはとってもいいと私は思うけれどもあなたにとってもいいとは限らない。殺害対象であるかも知れないし、それがため常識があり規律があり法律がある、清風教とあなた教が刃を差し向けあわぬための知恵がそこにはある。しかしさよ教とかオモイデ教とかほんの少し漠然とするだけでそこにはあなたや私や多くの人が感情移入できる余地が生じ、敷衍される。それがため宗教とは概念としてあらねばならず、や、論点がずれている気がして。比喩にたち返ればひと目でわからぬような結束、その上常識でも規律でも法律でもないところで結託しているっつうのが、私はいいと思う。
 年齢も性別も時には生物学的にもばらばらな集団が、異能力の許に集結すると強度を得るのはそのためで、私たちだってなんの集団かわからないけれども確かにひとつの目的のために参集することによって、がぜんええ感じの比喩となれるのである。例えばギャルが百名集まれば壮観にも似た恐怖があるだろうけれど、目を狙え、かなんか言って弱点はみなおなじなのだから一網打尽に駆逐できるだろう、というのが軟らかいところだ。そもそも世界がひとつのギャルになるはずはないとの常識が働くから、どんなに多くとも全世界で殺しにかかれば、ギャルはマイノリティなのだ。どんどん目を狙っていこう。
 そんな世界にあって私たちは平素、一を語れば馬鹿ではないのだから三は解って欲しいところ、一を語っても三分の一も伝わらないというのが実際で、ぐるりみまわしてみれば仕事の齟齬、恋愛の齟齬、そごそごの齟齬だらけでみなみな文句を言うし、一を伝えるには三語らねばならぬのをわかっているはずなのに、まあ時間の関係もあるかとは思うが当人のいない場で、よくあるものだとインターネットなんかで饒舌になっている事例がもうこれサイゼリヤの出店数よりも、多い。だから私は折に触れてみなさんが親から最初に習うであろう冒頭の言葉をいかにもアフォリズムめいてくり返さねばならず、遺憾。あと、いかん。また論点がずれている。あっ、生命線が切れている。


 そんな世界にあって俺たちは、そんな世界にあって、私たちは一を話して三も五も時には十も伝わって、議論になるような仲間がいるというのはこれ、僥倖なことである。幸いなことであると思う。そのようなひとびとがわずかばかりながら私にもあって、これは怖ろしいことだと思う。相手が心を読んでいるのか、私のモノローグが漏洩しているのか、或いは…。
 亡骸を…。「カルチャーを噛ませると、意思疎通が円滑」これは私の持論で、普通に状況を説明するよりも相手に伝わる、と思っている。それには相手と共有している、相手の裡に強度を誇るカルチャーを見極めねばならないが…。地球(テラ)へ…。比喩よりも聴視覚、五感へと訴えかける効率がよくて、というのも私たちはおなじ青春を過ごしていなくとも、カルチャーを噛ませることで、一種おなじ過去を共有できるから。私がツイッターで出会った女子大生を戯れに絞殺してしまった一件を、調書風に説明するよりも比喩を交えるよりもまあ動画でも撮っておけばべつだが、『沼』とか『Air/まごころを、君に』を通過して、相手もそれらを知っていたその時、おまえもまた女子大生の首をきりり締め上げているのだ。このひとわるいひと。
 ただ、AirだのKanonだのと言っていてもあなたと私がおなじ映像を瞼に映じているとは限らない、そこにもまた無論もちろん齟齬は存在しており、それは作品がオマージュを含有すればするほど起こり得る障害であって、日進月歩新しい作品が創られてゆく以上今後、そのような問題は増え続けてゆくものと推察される。ですので、私たちは時にたちどまって整理してみることも必要である。少なくとも月に一度は必要で時に血をみることも?
 そのようなわけで私は文学フリマの会場へと赴いたのである。一を語って、万を伝えんがため。