ドラえもん のび太の共依存カップル | 山本清風のリハビログ

 大山のぶ代のドキュメンタリーを少々暴力的に要約してみるならば「彼女は子供を持つことができなかった。そのため〝母親〟のような心情で、ドラえもんを演じた」というのを観てまあ、号泣したのだが、というのも自分は旧ドラえもんにやはり名状しがたい感情を抱いていたのであり、幼少期ことばにできなかったそれが母性だったのだと明示され思わず、フローリングに落ちたものが、涙であった。

 汚ねえ涙だ。この涙をあいつにくれてやればよかったのに。

 二歳を過ぎた辺りから子供、ドラえもんを視聴できるようになり私はこれを嬉しく感情、というのも、幼少期ドラえもんを全く接種しなかった細君はこれサイエンスフィクション、めっぽう暗く、パラレルワールドであるとかループ落ちに今更驚いて、『君の名は。』かなんかを誤って視聴して、絶賛してしまいそうな危うさがあるのである。ほっとけないよ…。

 

 パラレルワールドも鏡面世界もタイムリープも人工知能もミクロワールドも恐竜も自己犠牲もロボットのセンチメンタルもどれもドラえもんが既にやっているのだし、リインカーネーションだけはぼく球に任せるとして子供と大長編、世紀を跨いで再視聴してみると感心しきりで、評価に納得ゆかぬ気さえしてくるこれだから中年は嫌である。

 とまれ新作ドラえもん、十年を経過してがんばっているとは思うのだが、感動エピソードばかり紡いだ3D映画で電気ショック設定を追加したというのを聴き、おまえ全然わかってない、都合いい設定を勝手に足すな、おかまか、深い失望を覚えたのは記憶に新しく、同世代で当時ドラえもんを摂取していなかったであろう知人女性がその作品を大好きと宣言したので、確かに女性の好きそうなぱきりとした理由、ぱきりとしたプロットだろうけれど北九州の事件じゃあるまいし、電気ショックというのは無害なはずの人間が殺し合いを始める拷問なのであって、ドラえもんとのび太の関係に差し込んでいい電極などはない、そっちがその気ならこっちだって月の光に導かれたのではなく、ただ電気ショックが怖いからというだけの理由だけでセーラー戦士を全員集めるからな、ルナもアルテミスもだからな、程度のふつふつとした想いが、ないでもない。とそのような理由から、新作ドラえもんを信用することができないのだった。あとドラミの声優が千秋だから。

 千秋もココリコもどうでもよく、子供ができるとアニメ映画の声優を演じたがるのが芸人である。それは月の満ち欠けや潮の満ち引きと同じく、法則に過ぎない。新作ドラえもんで最高とは言わないまでも評価できる点としては、ドラえもんの母性の喪失がある。

 

 のび太は駄目な人間として描かれる。勉強ができず恋愛も上手くゆかず友人も親友と呼べる存在はなく果てには不細工な少女漫画家にして友人の妹と結婚してしまう、そればかりか駄目であることを証明するように二十二世紀からドラえもんがやってきて、歴史を書き換えようとするのだから存在を頭から否定されたも同じことである。しかも、それを享受してしまう駄目さがのび太にはある。例外として三秒で昼寝でき、射的の才能があって確か、あやとりも得意であったと記憶している。黄色いシャツと半ズボンを着用している。

 歴史を書き換えていいのか? 後に登場するタイムパトロールの概念にドラえもんやセワシの行動は抵触しないのか? 結ばれなかったジャイ子はいずこに? 明確な回答はないのだけれども、少なくともミニドラが登場する短編を観る限りジャイアンもスネ夫も経済的には成功したようだし、のび太は若干のキャラ変を経て、源しずかと結ばれたようである。その辺の補完が旧作末期の帰ってきた、だとか結婚前夜などで描かれていたような気もするが、子供と観ていないのでわからない。少なくとも私たちの二十一世紀はミニドラみたいではなかった。

 のび太はひとりっ子にありがちなことだが、甘やかされて育った。両親はそうでもないが、ひとりは祖母に、もうひとりはドラえもんに。後者のドラえもんはのび太に泣きつかれると、日常の不条理を解決する未来のひみつ道具を与えることによってその難を回避させるが、これは大抵の大人が感想するように、学ぶ機会をのび太は逸したとみていい。というのも、物語を一定程度観てゆけばのび太がまったく学習していないことがわかるからだ。ともあれいつしかドラえもんは未来に帰ってゆき(この、未来に帰ってゆくという矛盾形容がそもそもSFですばらしい)どうやらのび太も学んだらしく、キャラ変してずっとずっと好きだった意中の相手と結ばれるのである。
 

 ―――では、私たちは?

 どんなことからも学ぶことができる。同様に、どんな物語からでも、アニメだとしても。


 のび太は日々ありうべからざる設定によって受難を回避するが、その実、よく思い返してみれば毎度失敗するのであり、軽妙な音楽が流れエピソードは幕を閉じるのである。短期間暗記できる方法があっても一時凌ぎにしかならず、自分以外すべての存在を消すことができても問題は解決せず、実は都度都度教訓は語られているのだが、まずは視聴者とのび太との距離感、そしてドラえもんという存在によってそれらは婉曲に摂取されたり、時には、湾曲されてしまうこともある。

 先般申しあげた通りのび太は駄目な人間。感情移入し、自らと同化すると、どうにもやれない。というのも、自分は駄目な人間であると認めることになるから。ここだけ抽出してみればドラえもんは文学としか言いようがない。日常から乖離すべく摂取するはずの物語で感情移入すべき相手が駄目な人間であった場合、それは本当は駄目な人間ではない者が深窓の令嬢として醜悪下劣な悪漢に犯されるようなカタルシスか、或いは屑である自身を肯定するスタンス、いずれも文学作品としてこんにちまで読み継がれているスタイル。

 

 しかしながら私たちにはドラえもんがいない。とここで、のび太に対してあやかりたい感情を陽極に振るのかそれとも、負極に振るのか。後者であれば視聴はそこで終わりだ。他方前者であった場合、少なからず自らをのび太に重ねぬわけにはゆかず、よくあるのは「俺ならこうするね」式楽しみ方で、ひみつ道具を自分ならこう活用するねという二次創作だが、これは大概脳内でのみ執筆されビッグサイトなどには並ばず、空想力を育んだりしつつ己自身の欲求と、対峙することになる。

 どんなことでも「自分は違う」と発語した瞬間、容易に足許はすくわれる状態にある。つまり自分はのび太とは違う、だけれどもドラえもんがいる都合のいい設定だけは欲しい、あんな駄目なやつとは違うんだ、でもどこか似ているところもあるかも知れない、でも自分にはドラえもんがいないし確変も全くこない、自分は駄目な人間である、というように距離感を測り誤ることは緩慢に転げゆくことである。

 これは以前にどこかでも書いたことだが、「自分は特別」と思っている人間の凡庸は、特別がゆえ自らの評価が低いことを不満に思っているも、その理由となると「誰々がこうであるのに自分の待遇がこうなのは納得いかない」であったりして、その論拠は社会主義的なまずもって平等であることを前提としており、しかも、その上で自分だけは超法規的に優遇されたいということになるため、翻って「自分は特別」という大前提に自ら矛盾してしまっているのだが、都合のいい忖度とでも言っておこうか、私は、ドラえもんについて都合のいい忖度をした人間こそが、共依存カップルの道を一路駆け落ちてゆくのだと思う。

 共依存カップルは受動と能動を役割する二名から構成されており、よくあるパターンが「俺が守らなきゃ」の男と「あたしひとりじゃ何も考えられない」の女ではないかと思うが、ディティールこそ時代によって変遷もあろうけれど仕組みは皆一緒、という伝統様式であって、男が自己顕示欲であるとか野心プライドを注ぎ込むようにして女に向ける力学(自分に自信があるがその実、全方向的世界に対して自信があるわけではない)と、女は男のすべてが自分の方角に結集するよう時にはあえて困った行動をとるなどして(この場合こちらは受動であるから能動である男をきっかけにして、時には全世界に向かって自信を持つこともありうる)、双方に力学を駆動させ永久機関たらんとする試みである。

 

 ともあれ人間、色々と劣化するものだからどちらかの動力が不足することもあり、その場合は守られ設定のはずの女が気づけば男の思考行動の源泉となっており、いつしか手段が目的化しているかのような体位の入れ替えが起こる。このようにときどき体位を入れ替えることでやはり永久機関たらんとするのが共依存、お互いがなくてはならないスペシャルな関係になる、というか、怠惰に互いを落としこんでゆくというのが共依存カップルの典型とここに書いておきたい。旅の記念に。

 体位の入れ替えについて先程触れたが、広義に於ける共依存カップルとは男女の役割が逆転している場合もあるし、同性同士ということもあるだろう、時には親子なんてのもあるかも知れない、人間関係のひとつのパターンに過ぎない。だが、その多くがどれだけの配慮ともしかすると自分たちはふたりだけの世界にいるから、なんて思っているのかも知れないが、大抵が周囲に多大なる迷惑をかけているものだ。そこがいけない。たとえば不倫カップルは永久機関たらんため不貞の設定を導入しているが、その時点でまず家族に迷惑がかかっていると思って差し支えないし、更に両輪大旋回させるべく、上司と部下の設定が採用されていたなら仕事は本来の意味から離れ、ふたりがずっと一緒にいられるための刺戟物質に成り下がっており、だんだんと社会に迷惑をかけている度合が高まってくる。年輪を経るたび周囲の人間は増えてゆき、通常なら社会的地位も向上しているだろうからその深刻は、目も当てられなくなってくる。こうなると、共依存カップルと言って先刻提示したプロトタイプからはだいぶイメージが離れてきただろう。共依存カップルがなにも電車の中、衆人環視の場面で対面座位風キスをしているだけの存在なら、しかもそれが不細工同志であれば、わざわざ私はここに書かない。旅にも行っていない。

 そもそも旅に出ていない。ずいぶん前に新作ドラえもんから母性が喪失されている点を一応に評価したのはつまりそういうことで、私たちが旅に出る理由ではなくて親子の共依存を曲解した視聴者がやらかさないかどうか、たぶん旧作を観ていたであろう世代が新作で電気ショックなどやっていては心配でならないから。

 ドラえもんとのび太の関係は友情であり、先にも述べたようにのび太には友人はいるが、親友はいなかった。のび太は自身の孫の計らいによって親友を得たのであり、共依存カップルの問題を抱える人々に共通するのも、友人の少なさであると思う。同性の友人(正確に言えば〝性交渉不要で自分を理解してくれる他者〟だ)が少なく、或いはそれを看板に掲げている女性は一方ではビッチになるけれども、容姿や社交性の問題などもあり、近距離パワー型である場合は男の足を踏みつけて殴打するより選択肢がないこともある。殴れば嫌われるのはひとの道理で、次に殴る男を探し続けるか或いは、精神的に殴るかの二者択一となろう。世界には巨悪と戦うスタンド使いもいるというのに。

 友情の強度を高めているのは設定である。

 といっても電気ショックなどという陳腐で短絡的なご都合主義ではなく、ロボットという設定。しかも猫型ロボット。猫を飼ってみればわかるが、彼ら彼女らは実に適切な距離感で人間と接するばかりか、しかも野生の矜持を捨てはしない、虐待されることはあってもそれが性的であったという事件は、少なくとも自分は聴いたことがない。もし聴いたら、野良猫の群れに犯人を喰わせるのであるが、喰わせたくないものだ。で、理由や動機はどうあれドラえもんとのび太は心を通わせ、友情を育む。学校のことや恋愛のこと、親にはしない内容だってのび太は、ドラえもんに相談する。それは友達だから、親友だから。

 

 だからドラえもんに幾ら母性があったとしても、親と子がそれをしてはならないし、性交渉可能な相手とそれ行うことで、人間はおかしくなってゆく。親にすべき相談を上司にし、友人にすべき相談を恋人にすることで、愛情と義務とは履き違えられ、時に心の機微や学ぶべき問題は性交渉のスパイスにと悪用され、論点は転じ、周囲の視界が利かなくなる、おまえはいま緩やかに、不細工な漫画家と結婚する頭から否定された存在としての約束された未来を、享受したことになる。

 ドラえもんとはそれらバランスをひとつでも失えば消えてしまう、というか最初からわかっているはずの、夢の世界だ、だが私はそれを壊されたくないし、壊されたくないひとはまあ、ジブリよりは少ないかも知れないが多少、いるだろう。まだドラえもんは負けていない。のび太とドラえもんの友情に曲解の差し込む余地を与えてしまったら、ドラえもんのポケットにのび太がスカルをぶっこんではあはあする漫画が多数ビッグサイトに並ぶことになってしまい、それはドラえもんの敗北を意味している。夢の終わりだ。だが、まだがんばっている。

 藤子もまだがんばっている。星になってからもうだいぶ経つというのに、水木しげるが働き過ぎでみんな死んだとスピーチして、それからだってずいぶん経ってしげるも星になったというのにそれでもまだ、私は藤子・F・不二雄ミュージアムで子供とふたり、アンキパンかなんかを齧っている。そしてもしもボックスから電話して、ポコニャンの短編映画を観たり土管をくぐったりして、パーマンの主題歌流れる南武線をプラットフォームで待ったりなんかしている。ありがとうF、Fありがとう。はじめて購入した絵画は藤田嗣治なんて「めっちゃセンスいいじゃん、てゆうかマジで猫好きなんじゃん」なんてなんて、少々筆が乱れたが私だってかめはめ波を諦めない、まずは落ちている石を自らにぶつけてテレポートするところから始めたいと思う、あとお約束とはいえ三歳児には観せにくいほど劣情が多過ぎるぜ、不二雄。