絶え間なく自転するモーメントへの求心 | 山本清風のリハビログ

 リセマラなぞ言ってみたところでおまえの性器がなかったことにはなるまい。
 そもそもおまえ、あらかじめ凶器を握りしめて生まれてきてしまったことを殊更悲劇のように訴えるけれども、その対となるべきあらかじめつけられていた傷痕それを、押し開く理由とはこれなるまい。どうしてそこで急遽論旨が鍵式暗号にすり替わってしまうのか、そもそも傷痕とは施錠されているものなのか、そもそもそも解錠を要すものであるのかどうか。リセマラしてもおまえはおまえでしかあるまい。
 リセットマラソンというのはいい出目が設定されているのがあらかじめ判明しているから成立しているのであって、よりよい出目を求め賽をふる、そのくり返しこそがからくりなのであるから、たとえばサイコロの目がすべて一であったならば、ひとは持久走することをしない。更に言えば、リセットしまい。
 反復が可能性をしない。ループがループでしかない。私は私を明晰だと思う。だが明晰な思考とは、狂気なのだそうである。明晰に思考してみるならば対話対応の四手先は読め、四手先の相手と対話対応している私はあたかもポリリズムしているかのよう、他者の眼からはそのように映るのだという。そのようなミニマル。
 してみれば発狂とは四手先の相手とコミュニケーションするを呼び、しかし本当に狂っているというのは、相手を置き去りにしたままで四手先の対話を継続するを呼んでみたい。相手を置いてゆくなら先に先にと手を打つことができるが、相手は本当に百手先の未来へとたどり着くことができるだろうか。等間隔での併走をやめた時、相手の実体と予測とがリンク切れを起こした時、そのとき私は、はじめて狂っている。
 ――─絶え間なく自転するモーメントへの求心。私が時速六〇キロで疾駆することとはつまり私が何処へもゆけないということと限りなく等しかった。周囲のスピードについてゆけず私は、誰よりも速く自転している――─。
 くり返すとは変わらぬことを呼ぶ。
 先を読むということは未来を制御すること。
 未来を知り得ることは、過去を変え、円環を結ぶ。
 時間を制すとはつまり、時の停まっているということなのだ。
 ――─しかし道の解らぬこの上は、ここで自転を続けるよりほか仕方があるまい、よもやバターになるまでは―――。
 それはやわらかい発狂。間違ってもおまえのそのふにゃふにゃの凶器と一緒にしてくれるなよ、そもそも鍵だなんて対を成す発想そのものが狂っているんだ。

 

 


 おまえは狂っている。