神はサイコロ遊びを、知らない。 | 山本清風のリハビログ

 こんな荒唐無稽な場所にいて頭が狂わないのか? と問われれば、もう狂っているとの声もあるし存外にこれが苦痛でもない。結句何処に居ようと苦痛であるのだし、却って荒唐無稽なほうが気が紛れる、ということもある。
 ――─不条理に癒されるということもあるのだ。
「現在に、これ以上下はないという信仰さえあればいい出目の設定が確認できなくとも、賽をふる。それがひとの心だ。少なくとも賽をふってみる価値はある」
「なんだ、次の瞬間私に殺される可能性のあるおまえじゃないか。さみしいのか暇なのか知らんが時間差で解答してくるなよ、ひとのモノローグに」
「それと、リセマラは性器を手でひきちぎってなかったことにすることじゃない」
「もう生まれてくるな」
「明晰さは四手先の未来をおまえに映じるだろう。だが等間隔に寄り添うことをやめた瞬間、他者を置き去りにしたとき鼠算式に乗算されたx手先の未来とは、相手の現在と、手を取り合うことをしなくなる。それでも尚、眼前の本人も追いつけぬほど先の相手と会話をし続けた時、おまえは狂っているのだ」
「ああびっくりした。何かと思えば、ひとの論理の剽窃じゃないか。翻案だのオマージュだのと便利な言葉だよな、医者が患者の話を焼き直すだなんて」
「どうやら患者としての自覚はあるみたいだな」
「自分は狂っているかも知れない、と思えるうちはまだ狂っていない、という論理は、病識の前に於いてパラドックスだとは思わないか? おまえが自分は医者だと思ってみたところで現実は異なっているんだから」
「逆転移を目論み揺さぶりをかけているわけか。喰えないね」
「おまえがいままで喰ってきた患者、看護婦、医者に比べれば、というだけだろう」
「俺にはおまえの考えていることが手に取るようにわかるぞ」
「神はサイコロ遊びを、知らない」
「知らない。ってなんだよ急に、可愛いな」
「はあ?」
「言ってみろよ。神はサイコロ遊びを、何なんだよ」
「おまえはいきなり何を言っているんだ? 狂っているのか?」
「心外だな、狂ってるのはおまえだろ。さあ誰にもみせたことのない顔みせてみろ」
「なるほどおまえが狂っているのはわかった。だがな、殺す」
「よしよし抱っこしてやろう。きゃんきゃんに鳴かせてやるよ」
「神はサイコロ遊びをしないわけではない。すべての分岐を知っているのに、可能性も何もあったものではないからな。つまり神は、逆説的に確率を知らないということになる。すなわち神の前ではサイコロも遊戯たり得ない」
「x手先が、視えているとでもいうのか」
「xを放棄するのはおまえの自由だ。そして、xを証明せんとするのはひとの営みだ。だが、神の営みではない」
「おまえは傷つかない………」
「ひとを婉曲にクレイジーダイヤモンド扱いするなよ」
「いきなりダイヤモンド、いや、いきなり内臓だ」
「違うな。………いきなり内蔵なんだ」
 ベッドから手の届く距離に橋梁があり、淀みを湛える流れはいまも大量のタイ料理に埋め尽くされている。自動改札機。切符の類いは不要のようだが時間差式であるらしく、時折不意を打ち、打たれたひとがひしゃげたりして、ああはなりたくないものだ。
 私が親だったら、あんな危ない場所には通わせないのに――─。


「混乱を、愛して。」