明日の地球 | 山本清風のリハビログ

 元号何年の何ボールだか知らないが、私と対峙したり、私の背後に立ったり、或いは私の顔面の上、腕組み仁王立ちして全裸、なんていうのは言語道断であると各自遺伝子レベルに刻みこまねばならない。
 そうだ、ゾーリンゲンの恋人。或いはスプートニクの変人。エピゴーネンされる恬然自然なる関係としての家族と、その不在。永続的な家族の不在とはとりもなおさず恋人の不在であることを、論理の転回する過程に於いて各自、細胞に刻みこんでおけと言いたい。そこで残されるは、変人である。
 変の定義とは自己申告ではないと、精神医学やサブカルチャーは体現している。行動原理はシンプルであるほうが鋭利で永続可能であるのは自明の理である。であるからして生きること、食べること、寝ること、とりわけ三大欲求の行使に於いて常軌を逸していることが肝要となり、性欲のみに於いて異端であり、性癖を隠匿することによって日常生活を営む人間が一定数存在するであろうことは、想像するに難くない。性欲そのものが日常では隠匿されているからである。
 落差は、確かに存在しているだろう。しかしそれが極めて初歩的な心理作用/錯覚であるのを再確認してみる必要がある。きっかけとしては後天的に正当化される錯覚も、真実を語るに於いては心眼曇らせる一因にと尽くす。結論のみ述べるのであれば、吊橋効果により成立した恋愛の最終地点が破綻であった場合、錯覚というのは選択肢を誤るリスクファクターでしかない。きっかけも運命も占いも、後付けされた動機がポジティブなものでない限りは疎まれる運命にある。疎まれるきっかけとなるし、そのように亀甲の罅が告げている。
 責任転嫁に最適なのである。或いはセルフハンディキャッピングの一側面であるのかも知れない。あらかじめ判明しているのが売りであるのに、後日自身の判断ミスを軽減させる用途が多いというのは、実に大いなる矛盾である。となれば価値は相殺され、きっかけも運命も占いもないというのが真理ではなかろうか。人生も経理も締めてみるまでは判らないのだ。
 そんなことはどうでもよくて変人だが、論理はぐるり旋回して日常生活も満足に送れぬからこそ変人ではないかと思うのだ。即ち三大欲求、そのいずれもが常軌を逸することによってはじめて人は変と呼べるのであり、遠ざけられて然るべきであると私は思うのである。
 実践してみよう。性欲と食欲を同時に変に満たすということになると、方法は限られていて、死姦ならびにカニバリズムということになろうかと思う。レイプならびに殺人、というのは避けられないようで実は墓暴きによって解決できる問題であると解る。考えるというのは大切なことだな。
 暴力とは性欲の発露であると言われる。だがたとえ三大欲求が変であったとしても、出来得る限り日常生活を営む気持ちだけは忘れないようにしたい。死体を量産していては捕縛の危機の生ずるは必定で、第一そんなことをしていてはおちおち寝てもいられない、睡眠欲をまだ満たしていない。変人にだって眠る権利がある。犯罪行為に手を染めて秒刻みのスケジュール、これではまるでリアルが充実しているではないか、いけない。草木の如くひっそりと在らねばならない。
 食べ残した遺体は、寝具にするといいのではないだろうか。死体に包まれてはじめて安眠できる、これはなかなかどうして変である。眠れないから死体を暴く。やおらもよおしてくる、交わる。お腹が空いてくる、食べる。いいじゃないか。変だぞおまえ。その調子で夢中の出来事にしてしまえば、夢遊病として刑法第三十九条が適応される可能性すら浮上してくる。完璧だ。完璧な計画じゃないか。完璧に変だぞ、おまえ。
「……………」
 私の弁舌を黙して聴いていたおまえは正面を見据え、しきりに手許のカルテに書きこみを加えてゆきながら全裸で、睾丸を揺らしていた。私の、枕の真上でだ。風もないのに揺れているのは動揺しているのかそれとも、カルテに何か書きこんでいるからなのか。私の胸中にふと何処かで読んだ無季自由律が去来する。

 

  〝はだかで
    はをみがくと
    ちんちんがゆれます〟

 

 ふむ。あいつの口腔には経年の汚濁が封印されている。歯を、磨いているわけではあるまい。しかも陰茎は揺れていない。睾丸だけが、踊るのだ。あいつの中で毎秒量産される顕微鏡レベルの可能性が、おまえという存在の中で唯一闊達に律動し、揺れているのだ。迷いとは思考だ。揺れもぶれも要は考えているという証左なのだ。おそれることはない。揺れるとよい。ぶれるといい。思うさま利き手がぶれているといい。但し、私の視界から消えてからな。
 元号何年の何ボールかは知らない。

 

 

 

「明日の地球」
 私はふと呟くとノーベル文学賞を受賞した&蹴った。